1932年 | 東京に生まれる。2歳の時、栃木県へ移住し、開拓農民生活を体験 |
1956年 | 東京大学応用化学科卒業 |
同 年 | 日本ゼオン(株)に入社。高岡工場、大阪営業所などに3年間勤務した後、退社 |
1959年 | 東京大学大学院工学研究科応用化学専門課程に戻り、プラスチック溶融体の流動特 性を研究。水俣病の水銀説を聞き、個人的に調べ始める。大学院博士課程は土木工学科に進む |
1965年 | 新設の東大工学部都市工学科の助手に就職 |
1966年 | ミュンヘンの国際水質汚濁防止会議で「新潟水俣病」について発表。翌年から新潟 水俣病の被害者が提訴した民事訴訟に弁護団補佐人として加わり、公判廷尋問で活躍 |
1968−69年 | WHO(世界保健機構)上級研究員としてヨーロッパの公害を調査、オランダでは酸化 溝による下水処理技術を研究 |
1970年 | 水銀問題の紹介によりフィンランド自然保護協会大賞を受賞 |
同 年 | 東大に帰任。以後、公害の研究・調査結果を市民に直接伝える場として、自主講座「公害原論」を開講。以後1985年まで15 年にわたり自主講座で環境問題の市民学習運動を組織し、環境科学研究促進への強い刺激を与える一方、市民の手による公害監視運動、被害者救済・支援活動、企業の"公害輸出"を阻止するなど全国の公害反対運動に対する情報サービス・情報ネットワークを築いた。今日、全国の多くの大学が公開講座を催し、市民へのサービスと大学自身の活性化を図ろうとするのは、宇井純自主講座の成果に学ぶものといえる |
1972年6月 | ストックホルムで開かれた国際環境会議に水俣病患者やカネミ油症患者らと「水俣からのメッセージ」を携え参加。世界へ初めて水俣病をアピールし、衝撃を与えた |
1979年 | アジア環境協会を再組織して会長に就任 |
1982−83年 | フルブライト研究員として米ミシガン州立大に留学 |
1986年 | 東大助手(21年間)を退職。沖縄大学教授に就任、公害病、環境科学などを担当。 |
1989年 | 沖縄大学地域研究所所長に就任 |
1990年 | スモン基金奨励賞受賞 |
1991年 | UNEP(国連環境計画)よりグローバル500賞受賞 |
1997年 | 前年、沖縄で開催された日本環境会議の決定を受け「沖縄環境ネットワーク」を結成、世話人に就任 |
1998年 | 沖縄県公害審査会委員に就任 |
2000年 | 沖縄サミット直前に開催した国際環境NGOフォーラムを主宰 |
2002年 | 第1回アジア太平洋環境賞受賞 |
2003年 | 沖縄大学を退職。第1号名誉教授に |
=単 著= | |
『欧州の公害を追って−宇井純レポート−』 | (1970年/亜紀書房) |
『私の公害闘争15年』 | (1977年/潮出版社) |
『公害の政治学−水俣病を追って−』 | (1972年/三省堂) |
『公害列島70年代』 | (1972年/亜紀書房) |
『公害原論1−3 ・ 補巻 [1−3] 』 | (1974−80年/亜紀書房) |
『世直し〈 対談 〉』 | (1980年/創樹社) |
『キミよ歩いて考えろ』 | (1980年/ポプラ社) |
『検証 : ふるさとの水』 | (1983年/亜紀書房) |
『日本の水はよみがえるか』 | (1996年/日本放送出版協会) |
『沖縄型・回分式酸化溝のすすめ』 | (2004年/沖縄環境ネットワーク) |
=共 著= | |
『大学解体論[1−3]』 | (1975−79年/亜紀書房) |
『プラスチックの総点検−さよなら使い捨て文明』 | (1982年/日本消費者連盟) |
=編 著= | |
『公害−原点からの告発−』 | (1971年/講談社) |
『中国と公害−「三廃」処理と資源総合利用−』 | (1976年/龍渓書舎) |
『現代科学と公害 [正・続] 』 | (1976・84年/勁草書房) |
『日本経済と水−慢性的死への警告− 』 | (1977年/日本評論社) |
『公害被害者の論理』 | (1977年/勁草書房) |
『現代社会と公害』 | (1978年/勁草書房) |
『技術と産業公害』 | (1985年/国際連合大学[東京大学出版会]) |
『未来産業の構造−先端技術をめぐる対論−』 | (1986年/勁草書房) |
『公害自主講座15年』 | (1991年/亜紀書房) |
『谷中村から水俣・三里塚ヘ−エコロジーの源流−』 | (1991年/社会評論社) |