――2017年7月に世界122カ国の賛成を得て成立した核兵器禁止条約は、2020年10月に発効の条件とされた50カ国の批准が達成され、今年1月22日に正式に発効しました。あらためてこの条約の要点と意義について教えてください。
川崎 この条約には4つの柱があります。第一に、核兵器は非人道的な兵器であるということを明言していること。第二に、核兵器を全面的に禁止していること。これまでも核兵器を禁止する国際的な枠組みはつくられてきましたが、核兵器の実験だけを禁止するとか、一部の国は保有しても良いが他の国はダメだとか、部分的な禁止にとどまっていました。核兵器禁止条約は、いついかなる場合でも、核兵器に関わるあらゆる活動を禁止している点がとても重要です。第三に、核兵器を廃絶するプロセスについても基本的な道筋を定めていること。最後に、核兵器の被害者に対する援助も条約上の義務として定めていることです。
――この条約が成立するまでには、どのような議論がなされてきたのでしょうか。
川崎 核兵器禁止条約の類似の条約としては、生物兵器禁止条約、化学兵器禁止条約があり、特に化学兵器禁止条約には、かなり詳しい規定があります。今ある化学兵器をどのように廃棄するか、その検証制度や検証のための国際機関もできています。同じようなかたちで核兵器禁止条約をつくろうという提案は、実は1990年代からあったのですが、その条約案は、すべての核兵器国が加わることを想定してつくられたもので、内容的には素晴らしかったのですが、実現させるにはハードルが高すぎるものでした。
その一方で1990年代後半以降、対人地雷禁止条約やクラスター爆弾禁止条約が成立しました。これには、アメリカやロシア、中国などが加盟していません。それでも、対人地雷やクラスター爆弾が悪いものであるという国際的な規範をつくることには成功しました。それによって企業がそのような兵器を製造することへの社会的な規制となり、すべての国が条約に加盟したわけではないのに、クラスター爆弾などの生産が激減したのです。
こうしたことに着想を得て、また実際には、地雷やクラスターの問題に取り組んでいたNGOの人たちが核兵器の分野にやってきて、アメリカやロシアや中国を条約に入れるのはなかなか大変だけれど、地雷やクラスターのやり方で、「まずは規範形成でいった方がいい」というアイデアを持ち込んでくれました。じゃあそれをやってみようかということで、1990年代にできていた核兵器禁止条約案と、その後の地雷やクラスターのアプローチをミックスさせたことが、今の核兵器禁止条約につながりました。
――核兵器廃絶を目指すこれまで取り組みに、他の条約の経験が活かされたんですね。
川崎 今年で原爆投下から76年が経過しましたが、これまでの歴史の中で、核兵器の禁止や削減のために、さまざまな取り組みが行われてきました。例えば、アメリカとソ連/ロシアの二国間の核削減があり、多国間の枠組みでは、NPT(核不拡散条約)があります。それぞれ意味がありましたが、実際には核兵器の廃絶がすすんでいません。その理由は、これまでの取り組みは、核の保有を基本的には認めた上で、そのバランスを取りながら減らそうというアプローチだったからだと思います。
これに対して、核兵器の「非人道性」に焦点を当てる新しい動きがでてきました。これは2010年ごろから大きな流れとなりましたが、そこで大きな役割を果たしたのは国際赤十字であり、赤十字と連携するスイス政府でした。赤十字は政治的に中立的な立場ですから、アメリカとかロシアとか、個別の国を応援するのではなく、どこの国であれ、核兵器が使用されれば受け入れがたい破滅的な結果をもたらし、誰も救援すら出来なくなるということを強調しました。
――たしかに、実際に核兵器が使われた場合の被害や影響は、国際的なものにならざるを得ないですね。
川崎 この議論が一番高まったのは2014年頃でした。核の非人道性に関する国際会議などで、実際に核戦争が起きたらどうなるのかが話し合われました。ちょうど福島原発事故から3年が過ぎたころで、福島での事故の被害の厳しさが国際社会でも認識されていました。もちろん、核兵器の話と原発は切り分けられていましたが、原発事故でもこれだけ深刻な被害が生じているのだから、核兵器の被害はもっと大変だという認識は、この時期の核兵器禁止の議論に非常に大きな影響を与えたと思います。
具体的には、避難民が発生し、放射能汚染地帯には救援にも入れない。放射能の汚染は国境を越えますが、誰がどうやって賠償するのか、といった問題です。核保有国は、それにも対処できるというのですが、説得力がありません。
――核兵器禁止条約に至る議論に、福島原発事故が影響を与えたのですね。
川崎 とても大きかったと思います。特に核の被害の越境性を、国際社会に印象づけたと思います。そして、そのような大事故は起きるわけがないと言われていたことも、大きな教訓となりました。
2011年8月の長崎市長の平和宣言は、「福島の原発事故が起きるまで、多くの人たちが原発の安全神話をいつのまにか信じていました」と述べた上で、「核兵器が使われることはないと思い込んでいないでしょうか」と訴えました。核抑止論や核兵器が使われないという考え方こそが「安全神話」ではないかと。この指摘はいろいろな場面で引用され、核兵器禁止条約をめぐる議論でも影響を与えました。
――結局、核抑止の方が楽観的な理想論に思えますね。
川崎 これは原発でも同じだったと思いますが、みんながそれを理解してくれる前に、福島の事故が起こってしまったと思います。核兵器について、もう一回、核兵器が使われるような事態を起こさせるわけにはいきませんから、核兵器が使われることの恐ろしさと、放っておけばそうなってしまうということについて、リアリティのある議論をしていかなければならないと思います。
──川崎さん自身は、このような取り組みにいつ頃からかかわってきたのですか?
川崎 私は、1998年から、ピースデポというNGOで活動していて、NPTの会議にも参加したりしていました。当時はまだ、ICANはなかったんですが、ICANをつくるきっかけとなったような、国際的な活動の先輩の方々と交流してきました。1998年頃は、当時の核兵器禁止条約案が提唱されて間もない頃でした。これはすごいものだと思い、大きな刺激を受けました。まだピースデポが立ち上がったばかりの頃で、日本では、平和団体がデモをすることはあっても、平和問題でNGOが政策提案をするということは、ほとんどなかった時代です。
私自身はその後、2003年からピースボートに加わりました。ピースボートでは、いろいろな国々を回る船旅をやっているわけですが、そこに、広島、長崎の被爆者の方に乗っていただくというプロジェクトを2008年にたちあげました。これが大変な反響で、被爆者の人たちも元気になるし、話を聞いた世界中の方にも被爆者の思いを伝えられたと思います。
当時すでに原爆投下から60年以上が経っていましたけれども、いま伝えていくべきだと言うことを実感しましたし、そういう流れの中で、ピースボートがICANにも加わり、私自身も、ICANの中心メンバーとして関わることになりました。
――日本における平和を求める議論と、国際的に枠組みをつくる中で軍縮を進めよう、大量破壊兵器をなくそうということは、文脈がまったく違いますね。
川崎 私自身、ピースデポ時代からの活動を通じて学んできました。世界では、政策提案能力の高いNGOの方がたくさんいて、国際条約をつくることなどについても、NGOのリーダー格の人たちが、政府の専門家や大使の人たちとも肩を並べて交渉し、やりとりしている姿に驚きました。そういう活動の中で、国際法を活用するとか、国際的な枠組みを活用することを学びました。
例えば、日本の団体だから日本政府を動かすぞといっても、なかなか難しかったりしますが、それはどこの国でも同じです。自分の国の政府をパッと動かせる団体は少ないのです。それでもNGOとしてちゃんと登録をしておけば、国連の会議も傍聴ができて、国連の会議では、傍聴席のNGOの人が、政府代表の席のところに歩いて行って話しかけても怒られないし、日本の国会傍聴なんかより、よっぽど楽だな、ということを感じて、国連とか国際法の枠組みは、我々の味方だなと思いました。
一国一国を動かすときは、重くて動きづらいんですけど、みんなで協力して一つの国際枠組みをつくれば、それに、各国が縛られるようになる。そういうやり方で、NGOは工夫していると思いますし、そういうことを学んできて、その中で、先ほどお話しした大量破壊兵器禁止のようなアプローチもあれば、人道的アプローチで法的効果よりも社会の行動変容を促すやり方もあることを学んできました。
――このような議論の現場に、日本の市民社会やNGOから、もっと多くの人が出て行くべきだと思いますし、それを国内の議論にフィードバックしないといけないですね。
川崎さんが、核兵器禁止条約に関する岩波ブックレットで、核兵器の廃絶なんて「できっこない」と言われ続けてきたという話を書いておられましたが、「できっこない」と言われながら本気で取り組んできたのは、NGOだけではなく、世界のいろいろな国の外交官や政府関係者も、本気で取り組むべきだと考え、実際に行動したからこそ、条約が成立し、発効したのだと思います。これまでの経験から、他の国や政府関係者の動きでなどで印象に残っていることなどを教えてください。
川崎 核兵器禁止条約を成立させることに貢献した国はたくさんあります。たとえば、オーストリア、メキシコ、コスタリカ、ニュージーランド、アイルランドなど、それぞれ、人の顔が見えるんです。あの人が、という具体的な人がいるんですよ。その人たちがいなかったら、その国はそういう動きをしていない。その人が担当者で、その国がそこにいなかったら、核兵器禁止条約はできていない、あるいはできるのが5年遅れただろう、という人がいるんです。それが大使であったり、大使に次ぐ立場の人であったり、そういう人がいるということも、私自身、ICANなどのNGO活動に関わって、わかってきたことです。
その人たちは、会議場でしっかり発言してくれることはもちろんですけれど、NGOとも絶えず意見交換をしたり、時には、飲みに行ったりもするわけです。
例えば、オーストリアで担当していた人は、10年以上、軍縮部門を担当していると聞きました。「キャラが立つ」という言葉がありますが、海外の政府関係者でも、キャラが立っている人がいて、そのキャラと政府の基本姿勢がマッチしたときに、物事が動いていく、ということを感じました。一方で、日本ほど、政府関係者のキャラの立たない国はないと思います。
たとえば、被爆者の講演会を、南米のある国で開いたときのことです。地元の市長さんがすごく熱い思いで、被爆者の話をご自身が聞いて感動したという話をしてくれて、それではちょっと食事を振る舞いましょう、ということになって、個人的な思いも語ってくださったりします。そういう場には、現地の日本大使館の職員がきて、詳しいメモを取って、帰って報告をしているのだと思いますが、自分としてはこう思います、ということは、決して言わないのが日本の役人です。
核兵器の分野に限らないと思いますが、何かの政策を実現するために、市民団体とも交流しながらやっていこうという人たちはどこの国にもいて、そのような人たちが、この条約づくりを動かしてきたと思います。日本政府の中にも、そういう人がいないはずはないと思いますが、そういう人が、いろんな国のNGOと人間関係をつくりながら仕事をしていくということが、日本の場合、出来ないシステムになっているのではないかと思います。
――それが日本の官僚の基本的なスタイルになってしまっているということですか。
川崎 そういうことがあると思います。確かに10年間軍縮の担当をして、軍縮のNGOとつきあっていれば、癒着とか不正の可能性もないとは言えないので、3年くらいで交代した方が良いのかも知れませんが、「日本のあの人」と名前が出てくる外交官はほとんどいないと思います。
――例が良いかどうか分かりませんが、佐藤優氏や、鈴木宗男議員のような人がスポイルされてしまう。政治家でも外交官でも、専門性のある人が育っていかないのは、日本の弱点なのではないでしょうか。
川崎 そこは、人の動きの流動性がないということと関係すると思いますが、元官僚の人がNGOにくるとか、NGOの人が、政府に登用されるとか、NGOの代表が政治家になるとか、そういうことが日本では非常に少ないですね。一部の業界関係者ではあるのかも知れませんが、平和とか、環境にかかわる分野ではほとんどないですね。
――話題が変わりますが、日本の核政策について、核兵器国と非核兵器国の「橋渡し」をする、という話については、どう思われますか。
川崎 まず、率直に言って、日本の役割は「橋渡し」ではないと思います。被爆国であり、当事国なのですから。「橋渡し」は、第三者が間を取り持つ話であり、日本の立場は、そんなことではないはずです。まず被爆国として、核兵器廃絶の先頭に立つべきです。
たしかに、核兵器禁止条約に核保有国が反対していることは事実ですし、核保有国の参加が必要だということも、そうでしょうから、核保有側との「橋渡し」が必要だとしても、核兵器禁止条約の側にも顔を出し、話をして、関係をつくっていくべきだと思います。日本政府が毎年、国連に提出している「核廃絶決議」では、核兵器禁止条約について、一言も触れていません。いま、焦点になっているのが、来年開かれる核兵器禁止条約の第一回締約国会議に、日本がオブザーバー参加するかどうかという問題です。
私たちは、オブザーバーではなく、条約そのものに入って欲しいわけですが、日本政府として、それが難しいというならば、せめてオブザーバー参加をすべきです。しかし、今のところ、それすら政府はかなり後ろ向きです。「橋渡し」をどれだけ本気で言っているのか、それとも、核兵器禁止条約に入らないことの言い訳のために言っているのか。
―─言い訳としか思えませんよね。
川崎 本当に疑わしいと思います。
―─核兵器禁止条約の会議に、日本がオブザーバー参加するとしたら、アメリカはどう反応するでしょうか。
川崎 政府の中でも、日本がオブザーバー参加をするのであれば、事前にアメリカに打診をして、「いいよ、行ってきなよ」と言われてから、という考えがあるようです。
―─本当にそうなんですか(苦笑)。
川崎 それでいいのかということはありますが、アメリカ政府がどう言ってくるのかは分かりません。ただ、バイデン政権になり、基本的には核軍縮が重要だという姿勢を取っています。アメリカ政府も一枚岩ではなく、強硬派から穏健派までいますが、核兵器禁止条約推進諸国とも話し合いを深めることは良いのではないかという立場になっていく可能性もあると思います。
―─あくまでも「橋渡し」ですからと、アメリカに言えばいいはずですよね。
川崎 そうなんです。アメリカサイドの立場も代弁してくるから、何かメッセージがあったら言ってださい、という「橋渡し」もあるはずです。
―─ところで、フィリピンは、核兵器禁止条約に加盟していますね。アメリカとの関係はどうなのですか。
川崎 フィリピンは批准まですませています。これはまさに面白い部分です。
フィリピンは、昔のような米軍基地は廃止されましたが、米軍との連携は継続していますし、中国との関係でも領有権を争っているところがありますから、フィリピンと日本の立ち位置は似たところがあるわけです。
日本政府は、アメリカとの関係、中国との関係があるから入れない、というわけですが、なぜフィリピンが入れているのか、ということが説明できていません。
―─また、北東アジア、朝鮮半島の非核化のために、核兵器禁止条約が活用できるという考え方もありますね。
川崎 私たちは、いずれ、北朝鮮との間で、朝鮮半島の非核化と平和の関係を構築したいわけです。その際、北朝鮮の非核化を、きちんと検証する枠組みが必要ですが、そのような枠組みを、私たちは持っていないし、世界のどこにも存在しないわけです。
核を持っている国が核を廃止していくプロセスは、アメリカとロシアの間では、査察・検証の仕組みもありますが、あくまでも二国間のことです。多国間での枠組みは、現存していなくて、北朝鮮が仮に核をなくすとなれば、何らかの枠組みが必要です。それはまさに、核兵器禁止条約がやろうとしていることです。
その意味でも、日本が締約国会議に参加して、たとえば、北朝鮮のことを念頭に置いて、核の廃棄を国際的に検証するためには、こういうやり方が必要だと、国際的に話し合ってつくっておけば、北朝鮮が本当に非核化することになった時に、それが活かせるはずです。
―─朝鮮半島の非核化を、国際問題として実現しようとしているのか、それとも自国の交渉の材料として使っているのか、選挙のアピールとして言っているだけなのか、アメリカのスタンスも含めて、問われるべきですね。
川崎 今すぐは条約に加われないとしても、北朝鮮の非核化が達成されたときに、北朝鮮、韓国とともに、日本も加入するという考え方でも良いと思います。そのような政治的な目標を定めて、それに向けてやっていくというのであれば、支持も得られると思いますが、そういうアイデアも示さないまま、条約には入りません、会議にも出たくありませんといわれても、困っちゃうなと・・・。
―─議論を逃げているだけですね。ところで、核兵器禁止条約への中国の姿勢はどうなんですか。
川崎 中国の姿勢は、基本的に他の核保有国と同じです。条約制定過程で、一度、少し前向きな姿勢を示したこともあったのですが、ほんの一瞬で、今は他の核保有国とともに、大事なのはNPTだという立場であり、核兵器禁止条約には参加しない立場です。
なお、あまり注目されていないことですが、2017年1月に、習近平国家主席がジュネーブで、核兵器の廃絶に関する演説をしているんです。その内容は、2009年のオバマ大統領による「核兵器なき世界を目指す」という演説の内容と非常に近くて、最終的には核兵器廃絶を目指し、それにむけて段階的にすすむと述べています。それを踏まえて、中国政府に対しても、核兵器廃絶にむけて取り組みをするよう求めていくことが大事だと思っています。
実際には、中国が持っている核兵器は300発ぐらいで、アメリカやロシアの核兵器は5〜6千発ですから、まず米ロが削減を進めるべきという中国の論理を崩すのはなかなか難しいと思います。もちろん、中国が増やしていいと言うことにはなりませんが、米ロがもっと減らさないと、中国は巻き込めないということだと思います。
―─これは、NPT体制の限界ですね。
川崎 核保有国を甘やかしていると思います。本来、NPTの中に、核軍縮義務が書かれているんですが、実態として、効いていないですね。
―─最後に、川崎さんが、ピースボートの活動を通じて、若い世代の人たちに伝えていきたいこと、経験して欲しいことなどについて、お考えを聞かせてください。
川崎 核兵器廃絶の取り組みでは、ずっと被爆者の方々が重要な役割をはたしてこられました。何か起きると、マスコミは被爆者の方のコメントをとって、それを紹介します。しかし、80代の被爆者の方に、被爆国として日本はどうあるべきかを語らせて終わりということでは、何か逃げている部分があると思います。本来、次の世代、その次の世代が、この問題はこう思うということを言うべきではないか。こうしたことに向きあうような若い世代を育成していかなければと思っています。
しかし、それは簡単ではないですね。今の若い人たちの一番の関心事は気候変動であり、同じ核の問題でも、核兵器より原発の方が関心は高いと思います。原発は、実際に被害が起こりましたから。核兵器のことは、遠くに感じてしまっている人が多いと思いますが、それをどうやって、リアリティを感じてもらうかだと思っています。
被爆者の方にピースボートの船に乗っていただくことは、被爆者のお話を世界に伝えるということでもありますが、船の上には1,000人くらいの日本人が乗っていますから、船の上で、被爆者と若者が仲良くなってもらうことも重要です。3ヶ月も一緒に暮らすと、家族のような関係になってきます。そのようにして被爆者に刺激を受けて、自分のこととして考える人が増えてきましたし、今後もそういう活動を続けていきたいと思います。
4年前にICANがノーベル平和賞をいただきました。受賞して良かったことは、「川崎さん、どうしたらICANのような活動が出来ますか」「教えてください」という人が、たくさん出てきたことです。この授賞は、人々の意識を変えて、このような活動はすごく前向きなことで、若い世代が目指すべきことだというメッセージをくださったと思います。
私自身にとっては、20年くらい前に、核兵器禁止条約というものがあると知り、「おおすごいな」と思ったころからずっとやってきたら、本当にできたということが、何にも代えられない大きな自信になりました。やれば結果は出せるんだと。同じようにNGO活動の中で、何か取り組めば、良い変化を起こせるんだと、そういう自信を持つ人が増えれば、その活動は継続するし、広がると思います。
核兵器廃絶とか平和な世界の達成というのは、あまりに巨大な目標ですが、その巨大な目標に至る手前のところで、いくつかの中間的な目標を設定して、それを達成することの実感を、みなさんと分かち合っていきたいと思います。
―─国連の会議を傍聴したり、外交交渉の現場でいろいろな人と話をしたり、一つひとつの実感の積み上げが大切だと思います。若い世代の人たちには、多少、準備不足でも、積極的に現場に出ていってほしいですね。今日は、本当にいいお話を聞かせていただき、ありがとうございました。