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この人に聞く 宇井 純さん


2006年11月11日追記:
本日早朝、宇井純さんが逝去されました。
下記の記念講演のあと、午後の成果報告をすべて聞いていただき、また、その後の懇親会でも楽しくお話をさせていただいたことを昨日のことのように思い出します。
高木基金の活動についてもあたたかい言葉をかけていただき、あらためて感謝しております。
宇井さんが切り開かれた道を、新しい世代が引き継いでいかなければと思いますし、それを応援するのが高木基金の役割だと思っております。
心からご冥福をお祈りいたしますとともに、市民科学をめざす私たちの活動を、少し遠くに行かれてしまいましたが、これからも見守っていただきたいと思います。

2004年6月20日、東京新宿のカタログハウスセミナーホールで開催された第二回成果報告会の記念講演として、宇井純さんにお話をして頂いたものです。 (写真提供:ひろせ事務所)


宇井  ご紹介を頂きました宇井です。ちょっと近年、歳を取ったというのがありまして、以前は2時間くらいの講演は立って当たり前でしたが、今日は座って話させて頂きます。その分皆さんもお気楽にお聴き下さい。

高木仁三郎さんといろんな場所で一緒に仕事をしてきまして、だいぶ俺とは違うなあと感じがしまして、「彼は学者、俺は職人」という違いを感じた人間で、今日お話することもそんなに堅苦しいお話ではございません。長いこと、いろいろなところで仕事が交錯しておりまして、ここで話しをさせてもらうことは光栄ではありますが、彼の方が先にあの世に行かれたことが残念なことだと感じております。

科学技術は価値中立か?


ここに来ている皆さんには、だいたい当たり前というか、常識になっていることのおさらいのような話しを最初に致します。

今の日本社会で受け取られている科学者のイメージとは、私達の世代ですと、まず鉄腕アトムの御茶ノ水博士のように人里離れたところで白衣を着て、研究をやっていると。そしてその成果が善人の手に渡れば社会のためになるし、悪人の手に渡れば社会が破滅する。科学技術というのは価値中立で、使い方によって良くも悪くも働く。はっきりそういう形では指導要領に書いてありませんけど、だいたい高校の教科書はこの流れで書かれています。はっきりそういう議論をするのは、だいたい共産党系の科学者に多いといいますか、日本の左翼では、そういうイメージがだいたい行き渡っているということです。

しかし、本当にそういう科学者がいたかということになりますと、実はそれは第一次大戦までの話でありまして、第一次大戦までのヨーロッパの科学者というのは、貴族かユダヤ人です。貴族というのは一旦緩急あれば武器を取って国を守るのが職業ですけれども、必ずしも健康上の理由とか、戦争には向かないという貴族もおります。そういう場合に、彼らは別に働かなくても食えますから、その財産を科学の研究のために使うというのは一つの流れでありまして、従ってヨーロッパでは、特にイギリスで典型的ですけれども、科学者が成功しますと貴族の称号を貰い、また貴族が科学者であるということの社会的なイメージがずっと残っておったわけです。

もう一つは、私も友人に何人かおりましたけど、ユダヤ人です。彼らはヨーロッパや或いはアメリカでも根強い差別の中で生きておりますが、芸術とか科学の世界では比較的差別が少ない。実力に応じて評価されるということで、科学の世界に入ってまいります。聞いてみますと、この人もユダヤ人だったのかと思うくらいユダヤ人の比率は多いのですが、彼らは自分たちが差別の少ない世界で生き残るために必死で頑張っている。

科学者というものが、だいたいこの二つのどっちかだと言われたのが第一次大戦までです。

大学を出て若い科学者が科学の世界で働こうと思って論文を書きますと、先輩が廻し読みし、これはなかなかよくできるということなら、研究費の出るスポンサーに紹介してやろうということになる。当時の大手のスポンサーというとロシア皇帝かドイツ皇帝、それから、ちょっと金額の規模は下がって、その他の中小国の貴族とか、そういうところに紹介してやりますと、研究費が出てくる、そのお金で研究をする。

この流れは実は今日まで全く無くなったわけではありません。例えばロッキード事件がありました時に、日本ではロッキード社が田中角栄さんのところへピーナッツを幾つか持っていったわけなのですが、つまりダンボールに詰めて現金を入れて持って行きました。このとき、ヨーロッパでどうしたかといいますと、やはり政治的に発言力がありそうな所というので狙われたのがオランダのベルンハルト殿下、つまりユリアナ女王の旦那です。ベルンハルト殿下は、ロッキードから金を貰ったことを隠しませんでした。しかし、貰った金は自然保護運動にみんな使ってしまった。というのは、彼はヨーロッパ自然保護連盟の名誉会長でありまして、貴族としてそういうところに金を撒くのが仕事であった。ですからそういう伝統が完全に無くなったわけではなかったし、ロッキード事件というのが我々にとっては極めて生臭い事件であったとしても、ヨーロッパの場合は科学者と関係した事件になりました。

そういう伝統は第一次大戦で完全に断ちきられます。ロシア皇帝もドイツ皇帝もいなくなってしまった。それで困ったのが、研究費を申請する相手がいなくなった科学者です。そのときに皇帝達、貴族達に代わって出てきたのが企業でして、例えば、デュポンが金を出してカローザスという科学者を雇って、彼に絹に代わる繊維を作れという命令をしたことがあります。ここでも日本が絡んでくるんですけど、当時のアメリカは慢性の貿易赤字でありまして、その赤字の最大の原因はストッキングに使っていた絹の糸、生糸です。日本からの絹の輸入が赤字の原因なので、なんとかしてこれを止めなくちゃいかんということで、ナイロンの研究が始まったわけです。カローザスはこの研究に成功して認められたわけですが、彼は必ずしも満足はしていません。自分はもっと基礎研究をやってノーベル賞でも貰えると思っていたところが、金儲けのための研究に使われたということで、ナイロンができた後、自殺してしまいます。

「体制化科学」の時代へ


デュポンがナイロンの合成に成功したということは、他の国にも大変なプラスの経験になりまして、特に第一次大戦の後、政権がすっかり変わってしまったソビエト連邦では、ソビエト連邦を支えるための科学というスローガンといいますか、方向が出てまいりましたし、ナチスが政権をとったドイツではアーリア人のための科学というふうな施策が出てまいります。

つまり、大企業なり国家なりがスポンサーになるということが第一次大戦の後起こってまいりまして、これが一番成功したものはアメリカのマンハッタン計画であって、確かアメリカの80%以上の科学者がそこで組織されたといいます。ともかく、夜を日に継いで原子爆弾を作りまして、1945年に三発ができあがります。一発はニューメキシコで落として実験をしまして、残り二発は日本に落とすということをやって、かろうじて第二次大戦に間に合ったわけです。

今、振り返りますと、私は敗戦のときに中学校一年でしたが、日本が負けるのは分かりきっていた。そこへのとどめの二発が原子爆弾であったということを感じますけど、アメリカにしてみれば原子爆弾のおかげで陸上戦が避けられて、何万人かの兵士の命が助かったはずだということで、いまだに原子爆弾の必要性を主張しているというわけです。

ここで得られた教訓は、国家がその気になって科学者を組織するならば、大きな仕事ができるという教訓でありまして、その後、先進工業国はどこでも大学とか国立研究所とか、あるいは企業の研究所などを通じて科学者の組織を進めます。こうなりますと、科学と、その応用である技術との境目はだんだん薄れてきて、総じて科学技術などといわれるようなものになる。

科学史をやっている人であれば、第一次大戦までのアカデミズムによる科学研究に対して、それ以降の科学を、産業化科学とか体制化科学とかいうふうな名前で呼ぶことが普通になりました。この辺までは科学史をやっている人間ならば常識になったということですが、日本では依然として科学技術は価値中立であり善用も悪用もできるという考え方が主流になっていまして、こういう考えがいまだに幅を利かせているのは日本とアメリカの一部の田舎ぐらいじゃなかろうかという気がします。ヨーロッパでは少なくともこんなことを科学者が言うのはあまり聞いたことがありません。科学をやる人間だったら、科学とはそれなりの立場性を持っているという考え、資本主義社会の中で育った固有の立場を持っているということは常識となっております。

大学で学んだ化学が役に立たない


そのことを痛感したのは私自身です。高木仁三郎さんも一つの例ですけど、当時中学から高校、彼は確か新制高校に入っているはずですが、私の場合には戦争中の旧制中学に入学しまして、それが新制高校になりまして、いわば一種の中高六年一貫教育を受けたわけですけど、田舎の進学校に行きますと、時々大正時代に整備した研究室なんてものがありまして、薬品がずらーっと揃っています。それを使わせてもらって、一通りの化学実験をやりました。ですから駒場の東大に入ったときには、「俺は化学実験は高校で一通りやった」といわば一種の天狗になっていた。ただ上には上があるもので、駒場に入りますと、とても私が歯が立たない実験の名人が駒場の化学部に何人かいました。その一人は林原という男だったのですが、だいぶ後になってから気がついたのですが、これは岡山の林原一家の出身です。つまりバイオテクノロジーの最先端を行ってるところの家族ですから、当然そういう所に強いのは当たり前ですけど、ともかく本当に化学実験が上手い人間というのがいるもんだと大学に入ってから痛感しまして、それで負けないようにこっちも頑張ったつもりです。ですから、大学を出るときには、俺は一応当時の東大で教えられる化学の水準というのは、ほぼ身に付けたという自信みたいなものがありました。

ところが、一度会社に勤めまして、もちろん思うところありまして、それなりに化学を勉強したんですから、何もどこかの会社に一生奉仕するつもりはない、三、四年間どこが一番勉強になるかというのを探して、それは日本ゼオンという会社だったのですが、そこで働いて、三年たったら帰ってきて、東大でまた化学の研究をするつもりでおりました。そこへ教室に流れてきたのが水俣病のうわさです。九州の水俣というところに恐ろしい病気がでて、漁師が苦しんでいるらしい。しかしその原因は工場廃水の中の水銀が疑われるている。

これは私にも思い当たる節がありまして、日本ゼオンにいたときにだいぶ水銀を流しましたから、塩化ビニルの工場では水銀を流すというのも知ってるわけですね。それで、チッソの水俣工場というのは日本で最大の塩化ビニル工場ということも知ってまして、ひょっとすると我々の流した水銀によって水俣病のような病気がおこるかもしれないと。それは大変だということで調べてみることにしたのですが、調べれば調べるほど、自分のこれまで身に付けてきた化学の知識っていうのが役に立たんのです。結局、学校で勉強した化学はほとんど役に立たない。漁師の話を一から聞くしかない。聞き取りという極めて原始的な方法で、水俣病の研究をやり直さなければならなかったのです。

「市民のための科学」と「市民による科学」


そのときに感じましたのは、当時1950年の段階での最新の化学を身に付けたつもりでいたけれど、それは全く役に立たないということでした。後になって科学史の議論を中山茂先生から聞かされて、それはそういうもので、科学技術は産業のなかに体制としてに組み込まれて、公害問題なんかにはだいたい使えないものだ、という話を聞かされました。それからもう片方で、市民のためのサービス科学というものがそれに対立するものとしてあるはずだ、というのがもう一つの中山先生の指摘でして、聞いてて冷やかしたんですね。市民の科学というんだったら、リンカーンのように、「市民の、市民による、市民のための科学」という言葉も当てはまりますね、と冗談で言っていたのですが、それが今すぐに当てはまるほど簡単ではないというのが中山先生の答えでした。

しかし公害問題を調べて行くうちに、だんだん実際に公害を被った被害者が公害を止めるためにいろんなことを調べていることを知りました。

例えば、日産化学の富山工場というのがありまして、過リン酸石灰を作っています。そうしますと、過リン酸石灰の原料になる燐灰石(りんかいせき)のなかに、かなりフッ素が含まれています。そこへ硫酸をかけて過リン酸石灰を作るもんですから、フッ化水素がでます。これは工場の周辺にガスとしてばら撒かれて農作物に被害が出るのですが、周辺の住民に聞きますと、グラジオラスの葉に特徴的な枯れ方がでるものだから、だいたいグラジオラスを植えておけば、どこまでガスが来たかがわかる。みんなでグラジオラスを植えてみたら、工場の方が、みんなが気を付けているんで、ガスを出すのを遠慮するようになった。

なるほど、そういう公害の計測という分野があるんだなあと思って、少し気を付けてそういう分野まで資料を集めるようにしてみますと、他にも結構いろいろあるんですね。有名なのは三島の石油コンビナート反対運動のなかで、鯉のぼりの向きをみて、風を調べた有名な調査があります。これは沼津工業高校の先生方が生徒達とやったもので、コンビナート反対運動の決め手になった研究です。

また、ごみの焼却炉周辺の松の枯れ方を調べて、大気汚染の発生源がごみの焼却炉であったということを付きとめた。これは東三河だったような気がします。そういう例があちこちにぽつぽつでてきます。きわめつけの例は高木さんにも教わったんですけど、埼玉大学の市川定夫さんが進めた、ムラサキツユクサのおしべの毛の変色で原子力発電の放射能漏れについて調べるというのがありました。ムラサキツユクサのおしべというのは、科学実験で、典型的な大きな細胞の例として使うのですけれども……

(図示しながら)おしべに単細胞の繋がった毛が生えています。先端で分裂して分かれておりますが、あるムラサキツユクサの品種の毛の先端を放射線が横切りますと、そこのところで細胞の色が変わる。こういう品種がありまして、変色は低い倍率の顕微鏡か虫眼鏡で見えますけれども、この変色の調査を、浜岡の原子力発電所でずっとやった例があります。これはムラサキツユクサが植わっているだけで住民が放射能を監視していたということになりまして、極めて強い圧力になる。

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