−鎌田さんは高木仁三郎さんと同じ1938年生まれで、まさに同じ時代に生きてきたことになりますね。
鎌田 そうですね。いわゆる全共闘世代の一つ上の60年安保世代になります。
60年安保世代は、あとから来た全共闘運動に刺激を受けているんですね。安保闘争が「敗北」−これはカッコ付きの「敗北」なのですが−に終わったあとに、全共闘運動は、もっとラジカルに、大学解体とか知的特権の解体に踏み込んでいった。僕は、当時、編集者でしたが、大きな衝撃を受けました。フリーライターになったのも、この時代の影響です。
高木さんは新進気鋭の助教授で、そのまま出世していくはずであったのでしょうが、全共闘運動や三里塚の問題で触発されて、自分の意識と行動の変革に向かったのでしょう。
−「市民科学者として生きる」にも、三里塚の話が出てきます。それが仁三郎さんの生き方に大きな影響を与えたようですが、鎌田さんは、三里塚での仁三郎さんをご存じですか。
鎌田 高木さんは、ぼくよりも早く三里塚に行っていましたね。三里塚に「しだれ梅」という無党派の団結小屋がありまして、彼はそこに居たはずです。彼はいつも黒いヘルメットをかぶっていました。赤とか白とかいろいろあるんですが、黒ヘルは無党派なんです。
−仁三郎さんがヘルメットをかぶって闘争の前線にいたというのは、当時を知らない私たちには、馴染みのない部分ですね。
鎌田 本人自身の「自己変革」だったのでしょうか。都立大学の助教授がヘルメットをかぶっていたのですから、彼の姿は、みんなから見られて目立っていました。
そのころは、まだ原発の運動をやっていなかったのではないでしょうか。それでも、あの人は、目がきっとしていて、決意性の表れている顔が印象的でした。自分に対する決意性ですね。
鎌田 彼が、都立大学の助教授を辞めた後に、会って話を聞いたことがあります。素朴な質問ですが、研究の場を失うことをどう思うのかと聞きました。彼は、「もう研究はいい。」と言っていました。ぼくは、研究より啓蒙ということだと解釈しました。
研究をこれ以上高めてもしょうがない。これ以上の科学の研究はむなしくて、今の科学を広く伝えていった方がいい、ということだったのでしょう。
全共闘運動のキーワードは「自己否定」なんです。大学の教授として出世していくことをやめて、自分が学んできたことを市民に還元していこうと、言葉だけでなくて、実践したのですね。「研究より啓蒙」というのは、理論としてはあるのだけれど、実際に彼は、市民に還元していこうと言うことを、身をもって実行しました。
その時点では、彼も市民科学という言葉は使ってなかったけれど、市民科学という発想の始まりだったのではないでしょうか。
三里塚では、71年の強制代執行が大きな問題となり、75年、76年は運動がもう一度せり上がってくる時期ですが、高木さんも、現地の小屋に泊まり込んでいて、反対闘争をやっていました。
−仁三郎さんが都立大学をやめたのが73年、原子力資料情報室を立ち上げたのが75年ですから、ちょうどその頃ですね。
鎌田 彼は両方をやっているんですね。ぼくはそこにもびっくりして。本人にも言ったことがあります。三里塚闘争と原発問題ですから、現代のもっともラジカルでしんどいものを二つもやるなんて。ぼくは本人に「よくやってますね。」と言った覚えがあります。
彼はしんどいなんて言う人ではありませんでしたから、はっきりした返事はありませんでしたが、本当に消耗しただろうと思います。
鎌田 もう一つ印象的だったのは、86年頃でしたか、札幌で日教組の教育研修集会があって、ぼくも彼も講師で呼ばれていったときのことです。ちょうど、東峰十字路事件の裁判があって、判決が出される前でした。
−東峰十字路事件については、85年9月に、日比谷公会堂で開かれた「三里塚・東峰裁判完全勝利をめざす集会」の実行委員長を仁三郎さんが務めておられますね。
鎌田 札幌の地下鉄に二人で乗ったときに話をしたんです。ぼくは、冤罪だと考えて、本をつくっていると言ったら、彼は「冤罪?」と意外な顔をしてた。彼は、もっと闘争派なんですよ。誤解されるかもしれないけれど、「冤罪なんて、生ぬるい形ではなく、断固闘争しろ」と、彼はそう言いたかったのかも知れません。
彼は、いつもラジカルにラジカルに、と言うことで、自分の心を励ましていたんでしょうね。東大を出て、助教授になって、エリートコースにあったのが、それをどこかで自己否定していこうというバネにしていた。だから、現地闘争小屋で寝泊まりしたり、ヘルメットかぶってジグザグデモをしたり、三里塚関係の集会の実行委員長をしたり、とにかく前へ前へと出ようとしていた。
それが高木仁三郎らしいところだったのでしょう。自分のインテリ性を否定して。だからああいう顔をしている(笑)。「妥協しないぞ」という顔をね。そうして、自分を励ましてきたんでしょうね。
−科学者として、妥協を許さない。と言うことでしょうか。
鎌田 文科系・理科系という言い方は、おかしいかも知れませんが、性格が理系と言うことでしょう。
本多勝一さんも理科系の人ですが、文科系の人はいい加減なことがあって、そんなに厳密にしなくてもいいじゃないか、とか、ぼくなんかまさに文化系なんだけど。まぁいいじゃないか。それもそうだな。というところがある。
ところが、理系の科学者の場合はそうじゃない。実は、労働運動でもそういうところがあって、労働組合の幹部で工学系の人、技術者が意外に頑張ることがよくあるんです。
現場の労働者たちが崩れて行っても、インテリ層の工学系の人たちが最後まで抵抗している例は結構ありますよ。
−少し話がずれるかも知れませんが、前回、吉岡先生にお話を聞いた際、吉岡先生の担当しておられる科学史の講座には、文系の学生が多いと言っておられました。科学批判の分野では、それなりの専門性がなければ、鋭い批判ができないけれども、実際には文系の人が多くて、その点に物足りなさを感じておられるようでした。
鎌田 理系のほうが、専門化・細分化しやすいというか、はめ込まれやすくて、経済的には生活しやすいという問題ではないですか。文科系のほうは曖昧な存在で、なかなか就職もきちんとできないとか。もちろん、文科系としても、史学などは細分化しすぎて総合性が欠如しているという批判がありますね。
昔のように、大胆に総合していく構想力が失われてきていることは確かでしょう。それ以上に、理科系には、総合化していく教育が必要なんでしょう。教養科目を減らして専門科目を増やす、つまり技術者として純粋培養しようという流れが問題になっていますが、全体を見渡して、総合化していくと言うことが、市民科学者をどう育てていくかという意味で大切ですね。
鎌田 高木さんのことに話を戻せば、彼は、やはり全共闘運動の影響を強く受けていたんだと思います。
全共闘運動の時は、彼は30才だから。実際にはやらないんだけど、触発されたんでしょうね。三里塚を見に行ったと言うことは、全共闘運動があったからだと思うんですよ。
全共闘運動があって、三里塚に参加して、触発されて、これで良いのかと考えるようになって、自己否定して、どんどんどんどんラジカルになって、前にむかってすすんでいったというのが、彼の軌跡だったんですね。それが顔に表れて、妥協しないぞと、自分に言い聞かせている顔をしているじゃない(笑)。あれは自分に言い聞かせているんですよ。
鎌田 自分の人生を律していて、それを広めようと言うことで市民科学をやるようになり、住民運動に直接関わって、裁判の証人にもなった。六ヶ所村にも行くようになった。
ぼくは、最初から六ヶ所村の問題に関わっていて、最初の頃は、学者と言えば、亡くなった物理学者の水戸厳さん、それから星野芳郎さんにも講演に行ってもらいましたが、その後は、高木さんが行くようになりました。
高木さんは、運動を単に学問的に啓蒙するのではなくて、裁判の証人にもなるし、デモにも参加する。それは科学者としては珍しいことではないかなぁ。デモは好きだったんでしょうね(笑)。わざわざいくのだから、本当に行動的な人でしたね。
そうして原子力資料資料情報室で、情報と行動の両面で、高木さんがそれを体現化していた。ラジカルに、運動へ、と言うのが高木さんの特徴ですね。
−仁三郎さんとの関係を中心にお話を伺ってきましたが、鎌田さんにとっての市民科学について、お話を聞かせてください。
鎌田 市民科学については、高木さんが論文にまとめているのだろうけれど、ぼくの解釈で言う市民科学は、「双方向のかたち」なんです。
在野の英知を集めること。啓蒙だけではなくて、いろいろな知恵を集めて、そこからさらに学んでいくこと。つまり、研究をもとに住民運動などの中で、知識を普遍化させ、武器にする。運動の中での情報や経験を持ち帰ってくる。それが、例えば原子力資料情報室であり、そのような活動の中から運動論が出てきたのだと思います。
−鎌田さんがルポルタージュで全国を回っておられる中で、市民科学者として注目して居る方は、いらっしゃいますか?
鎌田 私が非常におもしろいと思っているのは、玄海原発(九州電力・佐賀県東松浦郡)の地元にいる人で、自分の家の裏の谷川をせき止めて、小規模な水力発電をしたり、太陽発電、風力発電もやっている原野 順二さんです。
この人は商売が電器屋さんで、原発反対の人なんですが、自分で電気を作れると言うことを実際にやっているんです。
−仁三郎さんも「科学は変わる」などで紹介しておられる、オルタナティブ・テクノロジー(AT)の一つですね。
鎌田 奇人ですけどね。周りにそれを支持している人もいるんです。ドイツかオランダから中古で風車を買ってきて、自分で組み立てて、グリーンエネルギーを総合的にやっているんです。
本人にいくらかかったかと聞いたら、「家一軒分ぐらいだ」とは言っていましたが、教えてくれませんでした。原発反対の運動から、そういう実践の活動へ、時代が変わってきているですね。
ぼくはそれこそが、市民科学だと思っています。「高木さんが生きていたら喜ぶのになぁ」と、彼に話をしたことがあります。彼を、「市民科学者」として表彰してあげたいですね。
鎌田 もう一人、北海道の泊原発で、もう20年以上、温排水の温度を測り続けている斉藤 武一さんがいます。バケツで海水をくんで、水温を測って記録する。それをもとにルポルタージュを書いて、原稿を送ってきたりしています。こんど七つ森書館から本が出るそうです。
−問題の現場での地道なデータの蓄積は、市民科学の重要な課題ですね。
鎌田 斉藤さんの本業は保父さんで、役場の職員ですけれど、クビにもできなかった。自治労の組合員でそのバックアップもあって続けられているようです。
そのような人があっちこっちにいるんですよ。個人個人の運動や想いがあって、高木基金が一つのセンターのような役割を果たせれば、もっと見えやすくなりますし、激励も与えられるし、力づけることができる。その意味で、ぼくは高木基金を支援しているのです。
「野に遺賢 (いけん) あり」と言うんですけれど。在野の人の努力が報われるようにしたいですね。
高木基金のやり方としては、推薦による顕彰なども考えたらどうですか。自分で応募しない人もいるだろうし、助成金を必要としている人だけが、市民科学者ではない。自分から金をくれと言うのはいやだという人もいる。お金のいらない報告も集めるようにして、高木基金からこういう活動もありますよ、と紹介する。助成金だけではない、表彰の仕方を考えた方が良いと思います。
−私事で恐縮ですが、私は大学の時に、鎌田さんの「自動車絶望工場」を読んで、非常に感銘を受けたのです。それで今回、鎌田さんのお話を伺うことを、非常に楽しみにしていました。
この「自動車絶望工場」を改めて読み返したんですが、今、研究者が置かれている状況が、鎌田さんが描かれたコンベア労働者の状況と、よく似ているような気がしたんです。つまり、科学が細分化されて、研究設備や計測機器に縛られ、大学や研究室に縛られ、その中で研究成果を上げることを使命づけられているのではないか、と。
鎌田 生産でも研究でも、効率を上げるには、細分化・高速化・大量化なんですよね。総合化というのは、時間がかかるし、無駄なことも多いので。細分化・高速化・大量化が合理化のエッセンスです。研究機関も細分化して、すごく狭い範囲になって、それを総合する力、批判する力がなくなってきている。それは、吉岡さんなども指摘していることではないですか。
これに対して、いかに細分化されたものを総合するかを考えると、何のために学問があるのか、という問題に立ち戻る必要があります。やはり人民の生活を豊かにすること。しかも、松下幸之助みたいに、上から下に水か何かを流すように、恩恵に浴すると言うことではなく、地域ごとに、独自のものを作っていこうというのが「市民科学」だと思うんです。
−市民科学においても、地域での自治とか自立と言うことが重要な視点なんですね。
鎌田 例えば、今度の英米軍のイラク侵略でも、単一化つまり、アメリカが全部を支配し、民族を統合すると、彼らは考えているのかもしれないですが、それは民族自決とは違うのです。民族自決、地域民主主義、自己決定とか、自立と言う方向にむかうべきなのです。
−大変参考になるお話をたくさん聞かせて頂きましたが、改めて、これから市民科学をめざす人たちへのアドバイスをお願いしたいのですが。
鎌田 まず、「人々に聞け」 ですね。大学の研究室で、教授から言われてやるのではなく、現場現場でいろいろな人の話を聞いて、それを自分の研究に結びつけていくことが大切ですね。
それは非常に無駄が多いので、いま少なくなっているわけでしょう。でも、文化系だったらフィールドワークだし、理科系だって、自分のやっているものが実際にどのように社会的に機能するかを考えることが、非常に大切ですね。歴史認識ということでしょうか。
−貴重なお話を聞かせて頂きました。どうもありがとうございました。
<取材日:2003年4月2日 聞き手:高木基金事務局 菅波 完>