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高木仁三郎の遺言 「高木基金の構想と我が意向(抄)」

2000年7月10日

私が社会的活動が不可能になる時点、及び死亡する時点以降も、私の意向が持続するために、ここに、私の代理人弁護士河合弘之氏の意向も踏まえ、現在私が、高木学校を通じて始めつつある社会的試みの目指すところをより明確にし、持続的なものとして世に残すためにこの覚書を書くことにした。

今日までの簡単な前史

高木仁三郎としては、1975年原子力資料情報室の創設以来、個人としての市民の科学の構築・創造と同時並行的なものとして、システムとしてのそのような市民の科学を営む場としての原子力資料情報室の確立ということに大きな課題があった。今その課題が、私の病ということにやや促される側面はあったといえ、1999年9月に原子力資料情報室のNPO法人化として一応の到達点を見たことは、よろこばしい限りである。

次の段階としては、次の目標に向かって、大胆にもう一歩を踏み出さねばならない。いやそのもう一歩は既に踏み出しているのである。それは、端緒的には高木学校の創設として、既に1998年に始まっている。高木学校のことは、今ここで繰り返さない。この第二の目標、市民の科学のための後進の養成ということは、高木学校で部分的には実践しているが、僕はもっと実践的かつ機能的なものとして、「高木基金」の設立ということを考えてきた。

これは一大事業であり、いずれ後の面倒を見てくれる方々にお願いすべきことも多いが、基本的な道だけは私が生きているうちに付けておかなくては意味がない。

高木仁三郎の本心

高木の希望は、これまで、多くの人が亡くなった後でできた「記念基金」的なものを見ると、たいていが、それは、直接に本人の意向を反映したものではなく、まわりの人が、本人の思い出のために行なう事業であり、当初集まった金は一定あっても10年も経てば資金繰りに苦労するようになる。そうかといって、「個人の偉業の記念」的な色彩が強いから、大新聞社のようなスポンサーがつかない限り、それ以上永続化するのは無理である。

私の構想はこれらと違う。私には「生前の偉業」と呼ぶほどのものはないが、死後も世間を騒がす程度に長期的視野に立った事業、特にNPO の発展への具体的、実践的、現実主義的意図に関しては、「えらい先生方」にはない行動力があるつもりで、それが今日の私を私たらしめてきたものである。その線を、死に際しても貫くことで、私らしい生涯を貫徹できるのではないかと思う。後で仕事を担う人にはご苦労な話であるが、私の最後のわがままとして許されたい。

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